夢に就て

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『信仰雑話』P.83、昭和23(1948)年9月5日発行

 私は夢についてよく人からきかれるので、ここに語ってみよう。お

よそ人間と生まれて夢を見ない人はあるまい。しかし、単に夢といっ

てもいろいろある。ざっと種類を並べてみれば、神夢、霊夢、雑夢、

正夢、逆夢等であって、神夢とは神のお告げであり、霊夢とは守護神

の警告であり、雑夢とは他愛もない何人も常にみる夢である。正夢と

は読んで字のごとく、夢の通りが事実に表れ、逆夢とはその反対であ

る。元来夢というのは幽冥という言葉を詰めたもので、その人の霊が

睡眠と共に離脱し、幽冥界に往くのである。そうして、その場合潜在

意識や、常に希望している事などが種々の形となって表れ、連続的で

とりとめもないもので、これは人間の作為である。神夢は信仰者に限

るのであって、その信仰する神霊が、何等かの必要によって夢をもっ

てお告げをされるのである。霊夢は守護神が夢をもって知らせるので

あるから、大抵は守護神の創作により寓意(ぐうい)的や、比喩的な

ものが多く、夢判断を要するものが多いのである。さきに述べたごと

く、現界は霊界の移写であり、種々の事象は先に霊界に起こるから、

霊界にいる守護神には前もって判るので、右の手段をとるのである。

よく虫が知らせるというのは、守護神の知らせである。

 霊が幽冥界に脱出する時、霊と肉体とは霊線によってつながってお

り、目がさめるや一瞬にして肉体に戻るのである。


 ここに注意すべき事がある。それは熟睡をすれば夢をみないという

説であるが、これは間違っている。もっとも非常に疲れた時などは夢

をみないが、浅い眠りは夢をみる。これは気にする事は少しもない。

浅い眠りでも夢をみるという事は、確実なる睡眠に違いないからであ

る。私などは人と談話をしながら薄ら眠い事があり、一分か二分夢を

みる事がある。電車の吊革へブラ下がりながら夢を見る事もあるが、

別に何ともない。夢を見る人は頭が悪いように心配するが、そんな事

は決してない。私などは若い時は余り夢を見なかったが、その頃の方

がかえって頭が悪かったように思う。
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有限力と無限力

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未発表、年代不詳

 単に力といっても、有限力と無限力の区別のある事を知らなければ

ならないのである。ところが今日の人間は力とさえいえば、有限力と
思っている。もっとも唯物文化社会としたら、それも無理はないが、
この考え方のため人間は本当の事を知らないで、有限力のみを信じ行

動するので、失敗者が多いのである。有限力とは誰も知るごとく色々

あるが、野蛮時代は腕力が主となっていた。つまり人力である。その

後進化するに従って智力が発達し、権力が生まれ、次で政治力、圧

力、戦力、金力、経済力、学力、馬力、機械力、破壊力、思考力、筆

力、宣伝力というように、漸次発達したが、その時代時代に応じて強

く働く場合もあり、弱く働く場合もあるのはもちろんである。例えば

野蛮時代における暴力、権力、支配力等それである。

 これについて重要な事は、以上かいただけの力は、ことごとく有限

力である事であるから、絶対性はないのはもちろんである。その何よ

りの証拠は、一時は絶対と思われる程の力も、時の力によって、ひと

たまりもなく破壊されてしまう。昔からの失敗者の例をみても分る通

りである。それに引換え無限力であるこの力こそ絶対にして永遠であ

り、これに抗する何物もないのである。ところが有限力は目に見え、

手に触るる事も出来るが、無限力は無に等しいものであるから、人間

には有るを信じられないのである。その結果有限力のみを力として信

じて出来たのが今日の世界である。これを最も分りやすくいえば、有

限力とは人間が作る力であり、無限力とは神が行使する力であると思

えばいい。

 これについて最も手近な例をかいてみよう。それは本教の浄霊法で

ある。医学の方では薬剤や機械等、目に見えるものを使うので、人は

これで治るべきものと思うが、浄霊は空間へ手を翳(かざ)すだけな

ので、初めての人などこれで治るなどとは、どうしても信じられな

い。しかし結果は医学よりも比較にならない程よく分るので、何程考

えても分らない。ただ不思議と言うのみである。というのは有限力は

知っているが、無限力は知らないからで無理もないが、この真相が分

れば不思議でも何でもない、当然な話である。つまり一口にいえば医

学は人間力、浄霊は神力である事が、実にハッキリしているのである。
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輪廻転生

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『明日の医術 第三編』昭和18(1943)年10月23日発行

 前項に述べたごとく、人間は生き更(かわ)り死に代り何回でも生

れ替ってくるのである。しからば一体、人間死後誰しも往かなければ

ならない霊界とはいかなるところであるか、私の研究によって知り得

た事を書いてみよう。

 まず、霊界とはいかなるところか、それは眼にも見えず手にも触る

る能わざる非物質即ち虚無であるから、唯物思想になれた一般人には

理解され難いのである。彼(か)の釈尊が説いた地獄極楽説やダンテ

神曲における地獄、煉獄及び天国篇にある表徴は、霊界の一部を示

したものであって、決して荒唐無稽な仮説ではないのである。何とな

れば、病気や災厄・不幸等のあった場合、その原因が霊界と余りにも

関係が多い事であって、いかに唯物的科学によって解釈しようとして

も、事実を歪曲せざる限り、合理的説明は不可能である。故に霊的事

象に対し、科学的批判をする事――その事がすでに非科学的である。

しかるに、霊的解釈を下す時、それは事実と何らの矛盾も来さないの

であるから、これが真の科学でなくて何であろうと思うのである。


 そうしてまず、霊界とはいかなるものかという事であるが、これを

一言にしていえば、意志想念の世界であるといえよう。故に、肉体な

る物的障碍がないから、現世よりもある点は素晴しい自由がある。そ

れはたとえていえば、その霊の意志によっていかなる所へも短時間で

行けるのである。彼の神道において鎮霊の際「天翔(あまかけ)り国

翔り坐(ま)して、之の宮居に鎮まり座(ま)しませ」という事によ

っても明かなるごとく、千里といえども、数分間にして到達されるの

である。そうしてこの霊の行動の遅速は、霊の階級によって非常に差

異があるものである。高級霊即ち神格を得た霊程速かであって、最高

級の神霊は一秒の何十分の一よりも速かで、一瞬にして、いかなる遠

距離へも達し給うのである。故に、低級な霊程遅く、最低級の霊に到

っては、千里を走るのに数十分を要するのである。それは低級霊ほど

汚濁がはなはだしいから重いという訳である。

 次に、霊は想念によって伸縮自在である。故に、一尺位の幅の仏壇

の中に数十人否数百人の祖霊が居並ぶ事も出来得るのである。その場

合、順序、段階、服装等は頗る厳格であって、ことごとく相応の秩序

が保たれているのである。勿論、仏教にては戒名、神道にては御鏡又

は神籬(ひもろぎ)に憑依するのである。


 又よく幽霊の有無をいうが、これは勿論実在のものであって、死後
短時日の間ほど死霊の霊細胞が濃度であるから、たまたま人間の眼に

映ずる事がある。彼の基督(キリスト)が復活して昇天した姿が眼に

映じたものが相当あったという事は別段不思議ではなく、あり得べき

事なのである。そうして年月を経るに従い浄化され、稀薄になるの

で、容易に見え難くなるものである。又幽霊は、針のような穴からで

も出入が出来得るのである。それは肉体なる邪魔物がないからであ

る。

 右のような点だけで解釈する時、自由主義者などは理想的世界と想

うであろうが、そうはゆかないのである。それはどういう訳かという

と、厳然たる法則があって、その法則によって自由が制限されるから

である。

 私は、今も生きている宗教界のある有名な人の著書の中にこういう

事が書いてあった。それは「人間は死後、霊が滅消してしまうので霊

の存続や霊界などはあるものではない。なぜなれば、もしそうである

とすれば、昔から死んだ人は何億あるか分らないから、死後、霊魂が

存続するとしたら、霊界は満員にならなければならない」――という

のである。この人などは偉い人ではあるが、霊魂の伸縮自在という事

を知らないのである。
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真の健康と擬健康

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『明日の医術(初版)第二編』昭和17(1942)年9月28日発行

 私は曩に、日本人の全部が殆んど病人であると言つた。そういふ事

をいふと、それは間違つてゐる。世間いくらも健康で活動してゐる人

があるではないかと曰ふであらう。成程外見上だけでいへば、如何に

も健康そうに見へるからそう思ふのも無理はないが、私は之に対し、

詳細説明してみよう。


 私の発見した―病気は浄化作用である―といふ、その浄化作用とい

ふ意味は、言ひ換へれば、一旦固結した処の毒素に対し、自然的に溶

解作用が起るといふ事である。従而、溶解作用発生以前は、何等病気

症状はないから健康体と同様である訳である。即ち、毒素保有者と雖

も、それが固結してゐて、聊かの溶解作用の発生がない時は、健康体

として自己自身もそう信じてゐるし、且つ顔色も体格も健康そうであ

るから、仮令、医家が健康診断を行ふと雖も、今日の医学の診断で

は、浄化発生以前の固結毒素を発見し得られないから完全健康と誤る

のは致し方ないのである。故に、医家の診断に於て、模範的健康とさ

れたものが、間もなく発病して死に到つたといふやうな実例がよくあ

るのは、右の如き理に由るのである。

 従而、毒素を保有し乍ら、浄化未発生の人に対して、私は擬健康と

いふのである。然るに、本医術の診断に於ては、右の如き擬健康であ

る毒素保有者に対し、保有毒素の尽くを知り得るのである。医学に於

て、病気潜伏と称するのは、此保有毒素を想像して言ふのであらう。

そうして医学の診断に於て、血圧計とか、ツベルクリン反応、赤血球

の沈降速度梅毒の血液検査等に表はれたる症状を以て、潜伏疾患を予

想するのであるが、それに対し如何なる臓器又は如何なる局所に潜伏

病原があるかを適確に知り得ないのであるから疾患の発生を防止し得

ないのは当然である。此意味を以てすれば、近来唱ふる予防医学など

は全く意味をなさないのであつて、結局空念仏に過ぎないと私は思ふ

のである。

 昔から、人は病気の器と謂ひ、いつ何時病み患ひがあるかも知れな

いと案じ、又釈尊は人間の四苦は生病老死であるとし、病は避け難い

ものとされてゐるが、それ等は何れも擬健康であるから、何時浄化作

用が発生するか判らないといふ状態に置かれてゐるからである。故

に、真の健康者が増加するに従ひ、右の如き言葉は消滅してしまふで

あらう。

 右の如くであるから、真の健康とは、全然無毒の人間でなければな

らないのである。そういふやうな完全な健康体は、今日の日本人に

は、恐らく一万人に一人位であらう。何となれば、九拾歳以上の長命

者は、右の如き健康者であるからである。然るに本医術によれば無毒

者となり得るのであるから、完全健康体となり、九拾歳以上の長寿者

となる事は、易々たるものである。
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心臓病

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アメリカを救う』P.75、昭和28(1953)年1月1日発行

 心臓病といえば、大抵は弁膜症の事をいうが、この原因は薬毒が心

臓の周囲に固まり圧迫するため、脈搏不正〔整〕、心悸昂進(しんき

こうしん)、呼吸困難等となるのであって、この強烈なのが狭心症

ある。狭心症の特異性は激烈な痛みと呼吸逼迫(ひっぱく)で、その

苦痛は見るに堪えない程である。そうして痛みは固結が溶解し、液体

となって出口を求めるための神経の刺戟であり、呼吸逼迫は液体とな

った毒素が、心臓を周囲から圧迫するためであるから、これも薬を廃

(や)めて自然にしていれば、必ず治るのである。(岡田茂吉師御論文です)



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心臓

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未発表『文明の創造』昭和27(1952)年執筆

 人体の機能中、最も重要であるのは、心臓であって、機能中の王者

と言うべきものである。従って心臓機能の本体が根本的に判らない限

り、真の病理は確立するはずはないのである。医学においても他の臓

器は手術が出来ても心臓は出来ないに見ても肯れるのである。ところ

がこのように肝腎な心臓機能が、医学では適確に判っていない事であ

る。ただ僅かに肺臓から酸素が送られ、浄血作用を行う機関くらいに

しか思っていないようで、ほとんど取るに足らない考え方である。で

は心臓機能の真の働きとは何であるかを詳しく書いてみよう。

 そもそもこの機能は、霊界と最も密接な関係のある点である。とい

うのは左のごとき事を前もって知らねばならない。というのは地球の

構成原素である。それはさきに説いたごとく三段階になっている。す

なわち一、霊界、二、空気界、三、現象界であって、これを一言にし

て言えば、一は火素が本質であり、二は水素が本質であり、三は土素

が本質である。もちろん一は日の精、二は月の精、三は土の精であっ

て、この三原素の力によって、一切は生成化育されている以上、人間

といえどもその三原素の力によって生命を保持されているのはもちろ

んである。

 そこで三原素を吸収すべき主要機能としては心臓、肺臓、胃の腑で

ある。すなわち心臓は霊界から火素を吸収し、肺臓は空気界から水素

を吸収し、胃の腑は物質界から、土素を吸収するのである。だからこ

の理を基本として、人体の構成を見ればよく判る。しかるに今までは

肺臓は空気を吸い、胃は食物を吸収する事だけしか判っていなかっ

た。従って心臓が火素を吸収するなどは、全然判っていなかったので

ある。ではなぜそうであったかと言うと、それには理由がある。すな

わち空気も、食物も科学で測定が出来るからであるが、ひとり心臓機

能のみはそれが不可能であった。というのは霊界は無とされていた以

上、機械的には把握不可能であったからで、これも無理はないのであ

る。早く言えば三原素の中、二原素だけ判ったが、一原素だけが判ら

なかった訳である。ところがこの一原素こそ、実は二原素以上重要な

ものであってみれば、これが判らない以上、完全な医学は生まれない

訳である。ゆえに今までの学理は、言わば不具的であった事は言うま

でもない。以上のごとく最重要な火素を吸収すべき機関が心臓であっ

て、水素を吸収するのが肺で、土素を吸収するのが胃であって、それ

によって人間は生きているのである。

 ところが病気であるが、病気とは再三説いたごとく、毒素の排泄作

用であるから、固結毒素を溶解する場合、熱が必要となる。その熱を

心臓が吸収する役目であるから、平常よりも余分に熱を要するので、

心臓はそれだけ活動をさかんにしなければならない。発熱の際鼓動が

頻繁なのはそれがためであって、その際の悪寒は体温を心臓に補給す

るため不足となるからで、また呼吸頻繁なのは心臓の活動を助けるた

め、肺臓は水分を余分に供給しなければならないが、それには熱は水

分を加える程力を増すからである。また発熱の際食欲不振なのは、消

化に要する熱量を、心臓へ奪われるからである。このようにして毒結

の溶解が終れば、熱の必要はなくなるから解熱するのである。これで

心臓の実体は掴めたであろう。

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借金是か非か

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『光』35号、昭和24(1949)年11月12日発行

 私は二十数年間、借金のためあらゆる苦しみを舐(な)めて来た、

差押え数回、破産一回受けたるにみても想像されるであろう、それら

の経験によって帰納されたものが、今言わんとする借金哲学である。

 今借金をしようとする人を解剖してみるが、単に借金といっても積

極と消極とがある、積極とはこれからある事業を始めるに際し、これ

だけの借金でやればこれだけ儲かる、すなわち利潤から利子を差引い

ても相当に残るという計算でやるので、これは誰も知っている、とこ

ろが消極の方は入金よりも出金の方が多いのでどうしても足りない、

やむを得ず借りるというのが普通ではあるが、いよいよ詰ってくる

と、先の事など考える余裕がない。目前焦眉の急を逃るればいいと差

迫った揚句利子の高い安いなど問題にせず、借りられればいいという

ようになる、今日新聞によく出ている高利貸の高歩の記事などがそれ

である、こうなると十中の八、九は崖から落ちる寸前ともいってい

い、全く断末魔である。


 以上が借金を大雑把に分けてみたのであるが、今度は、借金なしの
場合を考えてみよう、借金無しといえば、まず自分が現在持っている

資金で事業を創める、したがって洵(まこと)に小規模であるのは致

し方がない、例えばここに十万円の資金があるとする、それをまず半

分ないし三分の一くらいで創め、後の金は残しておくのだから、理屈

からいえば頗(すこぶ)るまだるっこい、しかもその十万円の金も無

論人の世話にはならない、己の腕一本で稼いで蓄積したものでなくて

はならない、全く身に着いた金であるから、力が入っている、そうし

て出来るだけ小さく始めるのである、この例として私は信仰療法を創

めたのは昭和九年五月、麹町平河町へ家賃七十七円、五間の家を借り

た、少し上等過ぎると思ったが、至極条件が良いので思い切って借り

たのである、この頃は古い借金がまだ相当あったが、自分が借金によ

って覚った哲学を実行しようと思ったからである。


 というのは、その根本を大自然からヒントを得たのである、それは

人間を見ればよく分る、オギャアと生れた赤ン坊が、年月を経るに従

い段々大きくなり、力も智慧も一人前となる、また植物にしてもそう

である、最初小さな種を播くや、芽が出、双葉が出来、真葉が出、幹

が伸び、枝が張り、ついに天を摩す巨木になるのであって、これが真

理である、とすれば人間もこれに習わなくてはならない、したがって

この理を忠実に実行すれば必ず大成すると覚ると共に何事も出来るだ

け小さく始める事を決心したのである。


 ところが、世人多くは最初から大きく華々しくやろうとする、そう

いう人をよく見るとそのほとんどは失敗に帰してしまう、そういう例

は余りにも多く見るのである、世間大抵の事業はそうで、最初は大規

模に出発し、失敗してから整理し縮小し止むを得ず小さく再出発し

て、それから成功するという例はよく見るのである。


 ところで、世の中は決して理屈通り算盤(そろばん)通りにゆくも

のではない、なぜゆかないかというといろいろ理由があるが、その一

番大きな点は精神的影響である、すなわち返済期はキチンキチンと来

るから、その心配がいつも頭にコビリついている、もちろん現実は決

して予算通りにはゆかない、その煩悶が始終頭脳を占領しているから

良い考えが浮ばない、これが最も不利な点である、またいつも懐が淋

しいから活気が出ない、表面だけかざっても、内容は物心共にはなは

だ貧困であるから、万事消極的で伸びる積極性がない、という訳で、

いつも不愉快でおる。商人などは安い売物があってもすぐ買えないか

ら儲け損なう、また大抵は返金が延びる事になるから信用が薄くな

る、利子も仲々馬鹿にならないもので、長くなると利に利がつく、そ

うなると焦りが出る、無理をする、何事にも焦りと無理が出たらもう

お仕舞だ、私はいつもこの焦りと無理を戒めるが、大抵の人は案外こ

れに気がつかない、焦りと無理は一時は成功しても決して長く続くも

のではない、その例として二、三かいてみるが


 彼の信長も秀吉も焦りと無理で失敗者となった。そこへゆくと徳川

幕府が三百年の長きを保ったのは家康の方針が、最初天下をとる時か

ら焦りと無理がなかった、彼は有名な負けるが勝ちの戦法に出たので

少し無理だと思うと一たん陣をひいて時を待ち、自然に自分に有利に

なる時を待っていた。自然に天下が転がりくるようにした、それがよ

かったのだ。彼の訓言に「人の一生は重き荷を背負うて遠き途を行く

がごとし、急くべからず」とは彼の性格をよく表わしている。今回の

日本の敗戦も種々の原因はあるが、この焦りと無理が災いした事に間

違いはない。それは最初の出発が非であるからである。そこへ気がつ

かず焦りと無理を通そうとしたのが原因であろう。

 一番いけないのは、苦しまぎれに借金のための借金をする事であ

る、敗戦の末期頃はそれであって、紙幣の乱発をしたのもそのため

で、インフレもそれが大きな原因となったのである。

 彼の英国労働党内閣が成立間もなく三十七億ドルを米国から借金し

たが、私はこれは将来経済的苦境の原因とならなければよいがと思っ

たが、果せるかなその後借金に借金を重ねなければやれない事になっ

た、今度のポンドの切下げもその現れである、大英帝国華やかなりし

頃は、植民地その他からの収入年三億ポンドというのであったから、

実に今昔の感に堪えないものがある、それまで英国の健全財政は同国

の誇りでもあったが、二回にわたる戦争によって今日のようになった

のも、またやむを得ない運命とも言えるのである。

 以上によってみても、借金は否とすべきもの、何事も小さく始める

という真理をかいたが、これを座右銘とされたいのである、もっとも

短期で返済可能の確信ある場合に限り、例外としての借金は止むを得

ないのである。

 以上が私の提唱する借金哲学である。(岡田茂吉師御論文です)岡田茂吉師御論文はこちらから

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