癲癇(てんかん)は、精神病と同じく霊的
癲癇・病気と霊三
『明日の医術 第三編』昭和18(1943)年10月23日発行
癲癇(てんかん)は、精神病と同じく霊的ではあるが、ただ異なる
所は、癲癇の方は一時的発作的である事と、その症状が人により頗
(すこぶ)る多種多様である事である。そうして癲癇の方はそのほと
んどが動物霊ではなく人霊であって、稀にはそれに動物霊が、複数的
に憑依している事もある。そうして死霊の憑るや、その霊の死の刹那
の状態を表わすものである。たとえていえば発作するや、泡を吹きな
がら苦悩の状を呈するのがよくあるが、これは水死の状態で、俗に水
癲癇というのであり、又火癲癇といい、発作するや、焼けるがごとき
苦悩の状を呈するのがある。又水を見、火を見て発作するのを水癲
癇、火癲癇という事もある。次に多いのは脳溢血のごとき病によって
急死した霊である。そういう霊が憑ると、その通りの状態を現わすの
で、顔面蒼白、眼は上吊り、ほとんど死せるがごとき相貌と状態を呈
し、片方の手足が麻痺状態となるのである。又変死――たとえば轢
死、縊死、墜死、殺害、による死霊等も、すべては死の刹那の苦悶の状態そのままを表わすものである。これによってみても、霊界に入る
や、死の刹那の状態が持続するという事は間違いないのである。
癲癇なる病気は右のごとくであるから、死霊の憑依である事は一点
の疑う余地はないのでこの意味において、医学がいかに唯物的に研究
するといえども全然的外れであるから、徒労以外の何物でもない事で
ある。近来、医学においては頭脳に原因があるのではないかと想い、
頭脳の切開手術を行う医家もあるが、患者に非常な苦痛と莫大な手術
料を費やさしめ、不具となし、寸効もないのであって、霊的事象に盲
目である唯物医学として止むを得ないとするもまことに憂うべきであ
る。
又、夢遊病者といって、発作するや自己意識を失い、所定めず彷徨
(ほうこう)する症状があるが、これらも死霊の憑依であって一種の
癲癇である。そうしてあらゆる癲癇は、前頭部中央深部に死霊が憑依
するという事は疑なき事実である。それは右の部に対し、本医術によ
る霊的施術を行えば、たちまち常態に復するにみて明かである。
そうして右に説いたのは本格的癲癇であるが、ここに擬似癲癇なる
ものがある。それは全然霊的ではなく、延髄付近に溜結せる毒素が第
一浄化作用による固結強化によって、一時的血管を圧迫する場合があ
る。その刹那何秒位の間意識を失い倒れるのである。これらは霊的作
用ではないから、簡単に治癒するものである。
癲癇の例として、今でも私の家に使用している下婢の事についてか
いてみよう。これは余程面白い例であって、最初の頃は、発作するや意識を失い倒れるのであるが、その面貌は物凄い程である。それは顔
面蒼白、唇は紫色で大抵の場合舌を噛み、口唇から血液が流れ出てい
るので、その状(さま)は殺害された死人のごとくである。それが本
療法によって漸次快方に赴き、近時は、発作するも意識不明等の事は
なくただ頭脳がやや朦朧(もうろう)となり、不快感が伴う位である。その際、前頭部深部に霊を放射するや、憑霊は非常に苦しみ、助
けてくれ――と繰返し、悲鳴を上げるのである。それは勿論本人の口
からである。その際私は『助けてやるからこの肉体から離れろ』と言
うと“行く所がない”――というのである。それは、その行く所とは
人間の肉体であるが、さきに説いたごとく、血縁のない他人では憑依
不可能であるから行き所がないというのである。そうして霊の放射二
三分にして移動するのである。それは大抵肩、腹部、左右の腕等であ
る。その個所を一々霊射する中、ついにいずれへか潜んでしまい分ら
なくなるのである。そうして霊が逃げつつ憑依する個所は、痛みと不
快感があるから判るのである。しかしながら、漸次霊は畏縮しつつあ
る事は、その発作的の苦悩が軽減するに察(み)て明かである。これ
は死霊とそれに憑依せる狐霊との作用である。
(岡田茂吉師御論文です)
東京黎明教会http://www.tokyo-reimei.or.jp/jp/020101.htm
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